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こんな話があります。 ある日、早沖の大山信一さんが、組合の人々と用水の川ざらえをしていたときのこと、川底のぬま土の中に「ことっ」という手ごたえがありました。よく掘ってみると、ふとい丸太が突っ立っていて、その先がのぞいたのです。よくしらべてみると、なんとそれは沈んだ船の帆先でした。 静かな日の多かった瀬戸の海にもあらしの日もあったことでしょう。大山さんはさっそく大明神ののぼりをたててお祭りをしたということです。 さて、茶屋町一帯の海は穴の海といわれていました。日本でもっとも古いといわれる日本書紀に、日本武尊が西国の熊襲を退治しての帰り道、吉備の国にさしかかり、穴の海で悪者をこらしめたという話があります。 そのころ中国の漢の人々が日本にやって来て吉備や児島に住みついたことから、この地方を漢海(あやのうみ)と言っていました。それがいつのまにか穴の海といわれるようになったのです。 この穴の海、つまり児島水道は古いむかしから主要な航路で往来が多かったのでしょう。神功皇后の新羅征伐(369年)や、大陸への遣唐使(630年)などの行きかえりに、この付近へ立ち寄った記録があります。 日本書紀その外の古い本にも、児島とか児島の海とかいうことばがよくでてきます。 種松山から茶屋町を望む また源平の古戦場にもなったところで、“平家物語”などに紅白の旗、入りみだれて戦ったようすが書かれています。 つまり、寿永2年(1183年)水島の海に軍船を浮かべる平家を攻めようと、妹尾の港を漕ぎ出した源義仲の軍船が往復したのもこの海なら、翌年、寿永3年(1184年)源範頼の軍が平行盛の軍を藤戸の合戦にうち負かしたのもこの海です。佐々木盛綱が兵七騎をつれて有城の海岸から藤戸海峡を渡り、平家の陣へ先を争って攻めいったことは源平盛衰記、平家物語などに語り伝えられる有名な話です。 茶屋町の海を源氏、平家の両軍が赤と白ののぼりをひらめかせて、戦う様子が目に浮かんできませんか。 しかし、茶屋町もいつまでも海ではありませんでした。干拓という大しごとが行なわれた江戸時代の中ごろ、そこに帯江沖新田村が生まれ、早島沖新田村ができ、海はいつしか、こがね波うつ稲穂の広がる田園に変わっていきました。 茶屋町の近くの町や村にも、海に関係のある地名が多いことは、むかし海であったことの証拠だといえるでしょう。
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